デザインをしていく過程で、深く濃厚な時間を味わうことがある。鉛筆を削って白い紙の上に置く。腕を組み考えを練る。するとアイデアのかけららしきものが現われ、手で描かれていくラインがたどたどしく奥行きをもったり、消えたりしながら少しづつ形を進化させていく。
この時間は何ものにも変えがたい大切な瞬間。そして濃霧の中を行くエトランジェのように、僕をデザインという旅人に幾度も立ち返らせてくれる。しかしそこから生まれ、旅立っていくのは自分の為のものではない。それは幾度となく紙上を交錯している、ある人に向けてのやさしさである。僕は、デザインとは他人へのやさしさや思いやりがなければ、と思っている。
昔を振り返るとこんな経験が思い出される人は多いんじゃないか?小学生の時、2人で一つの机を使っていると、よく机の真ん中に鉛筆や彫刻刀で境界線を引いたものだ。そして、ちょっと肘が境界線を越えた位でいちいち騒ぐ、小さななわばり争い。
ところが、そんな隣の子が教科書を忘れると、2人で一冊の教科書を持ち、肩を寄せ合い授業を受ける。小さな境界線は何処へやら。教科書を忘れた子は、隣の子に気軽に声をかけられない。「さぁ、どうしよう。誰にも言えないし、仮病を使っちゃおうかな。」などと大人が考える以上に思い悩むものだ。僕にも経験がある。教科書を忘れて先生から怒られていると、隣の子が「じゃ、これ一緒に読む?」と見せてくれたことがあった。子供っていうのは身勝手なようで、実はさらりと他人に優しさをもてるところがある。
最近、こんな小さな優しさがデザインの可能性を広げていくのではないかって思うことがある。つまり、相手を勇気づける事が出来るのがデザインの本質なんじゃないか。デザインがアートと違うのは、人の為にしてあげられる事がデザインだって事だ。アートは己の内面性や情緒を体現していくもので、他者の為に創造されるものではない。
しかし最近のTVのニュースや新聞では「人々の為のやさしさ」よりも「自分(TVと新聞)の為に自分がそうしたい。」が先行して判断を誤ったのではないかと言うよりも自分達の立場を守る為に放送を仕組んでいる。しかし「人の為のやさしさ」は「自分の為に自分がしたい」ととてもよく似ている。自己保存能力と「人に何かをしてあげる事」はすごく同義語なのである。
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