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Shibayama

works

Produced in 2000

Identity in N.Y.

卓上出版のうち一部の文章。

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紙の出力見本から

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荒俣宏

はがき作品について

●モーゼス・キングとニューヨークの摩天楼

 1920〜30年には、ニューヨークのビルは絵はがきとなって、たくさん売られていました。それまでは考えられないことでしたが、単なるビルが観光名所になっていたのです。 柴山さんが集められたはがきは、20世紀前半に出版社を経営していたモーゼス・キングという人が、主に観光ガイド用に制作したものです。 キングは、ガイドブックの中で摩天楼を広く世界に紹介したという功績もありますが、とにかくたくさんの摩天楼の絵はがきを出していて、摩天楼がいかに大事かを唱えたのです。その中には、実際にはできていないビルまでたくさん描かれていました。

 いまの私たちは、絵はがきを通して、ニューヨークの摩天楼の変遷を知ることができます。 そのイメージというのが、全く、未来のイメージで、1920年代というのに、空にはヘリコプターが飛んでいますし、人力飛行機のようなものも飛んでいたりします。まさにSF都市のワンシーンのようです。 フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』という人造人間が出てくる有名な映画があります。  

 その映画では、超高層ビルの林立した未来都市が登場しますが、モーゼス・キングが発信したニューヨークのイメージも、まさにそのようなイメージでした。 この絵の中でも象徴的なのは、この高い建物と建物とを上空で繋ぐ、ハイウェイが描かれているところです。もちろんそんなものはまだ無いわけですが、高架道を通る高速道路のイメージは、ヨーロッパではなく、ニューヨークからこのように生まれてきたのです。 その後、ニューヨークのハイウェイは、実際にニューヨークと田舎を繋ぐ、非常に大きな動脈になるわけです。

●天国と地獄としての、未来イメージ モーゼス・キングの絵はがきに描かれた摩天楼が、世界中の人々に与えた未来イメージは、ひとつは、どんどん高いところへと伸びていくような、無限の発展性のイメージです。 

 この時代の建築を「アメリカンゴシック」と言いますが、この当時のアメリカの摩天楼はとにかく高さを競いました。そしてそのように天に伸びるようなビルを沢山造っていくことは、神と近づくために高い尖塔を建てたヨーロッパのゴシック建築と同じように、ユートピアの世界へ近づこうとする意思を想像させるとともに、天から離れたところ、残された地上に、地獄の図を思い描かせました。 この古い絵はがきを見るとわかるように、光に満ちた上層階とは対照的に、闇に包まれた地層階の存在を見ることができます。

 ビルの上と下は、天国と地獄の非常に大きなメタファーになっているのです。20世紀風に言いますと、建物の上は天国で、下は地獄の状態になってしまうのです。そこには、階級などによるヨーロッパの階層社会とは別の、上下の位置関係による階層的な格差のあるイメージが描かれるのです。 上の方は非常に快適な空間になり、街をみんな見下ろせるような世界。ユートピア、未来の世界、下は労働者が働いていて、暗く、貧しい世界です。

 そういった風景は『メトロポリス』の映画まさにそのままで、ご覧になれば分かりますが、ビルの上の方には社長が住んでいて、屋上はこの世の楽園のようになっていて、裸の女の子が遊び、社長の息子が迷い込むと、裸の女の子と水浴をしたりしています。ところが、地下で働いている労働者の娘がそこに迷い込んでくるというストーリーです。

 そこで人々が想像したのは、こんなことではないでしょうか? 

 「こんな建物を小さなところに集中して建設すると、下は労働者が働いていて貧民窟ができ、暴力と犯罪が多発する世界になってしまう」と。ヨーロッパが19世紀に都市開発の主目的となったのはまさに、街の暗がりや、吹き溜まりといった犯罪の起こるような場所を排除することだったからです。 まさにこの絵が人に抱かせたニューヨークは、そのイメージなのです。

 あれが20世紀の未来のイメージだと人々が思っていたのです。 ところが、ニューヨークの摩天楼は、そうした地獄のイメージを払拭することに成功しましました。 もちろんライトアップは突然起きたことではなく、舞台装置としての都市という明確なイメージの元で、初めは上層階を、続いてビル全体を、最後にビル自身が周囲を照らすようになったのです。ここで紹介されている絵はがきを1枚1枚じっくり見ていくと、そうしたライトアップの変遷の歴史も見て取ることができます。

20世紀都市としてのニューヨーク

荒俣宏

●世界都市ニューヨークの誕生

 

 19世紀はパリが世界都市といわれ、20世紀はニューヨークが世界都市というイメージがあります。そうした都市論としての位置づけから、ニューヨークについてまず考えてみたいと思います。

 ニューヨークがどのように20世紀の世界都市となったかについては、いろいろな捉え方がありますが、20世紀を境にしてヨーロッパからアメリカ大陸へ、ひとつのシフトがあったことは確かです。

 それまでの世界都市といえば、衆目が一致するのはパリでした。パリに言わせれば、ニューヨークに負けたとはたぶん思ってはいないと思います。本誌『Identity in N.Y.』風に言えば、ニューヨークが、パリ以上に世界都市的性格を、急速に獲得してしまったということでしょう。

 まず、アメリカという国が、19世紀末頃から大きな力を持ってきたというのは重要な点です。アメリカは、カリフォルニアまで到達するのに1880年代くらいまでかかっていますから、19世紀は国内の問題で手いっぱいで、世界に向けて発信するものは基本的に何もありませんでした。ところが、20世紀に切りかわる頃から一気に変わってきました。そして、ニューヨークを世界都市へ変貌させた大きな契機となったのが、ル・コルビジェを感動させた摩天楼です。

 摩天楼が建築された理由の1つは、アメリカのシステムが、ヨーロッパの持っていた職人性、洗練性が非常に希薄だったということです。ヨーロッパは長い歴史の中で、職能制が非常に発達しましたが、アメリカにやって来た人々は、そうした世界からはじき出された人、言い換えれば純粋で理想主義的ではありましたが、素人の集団でした。

 そうした素人の集団が取り得る戦略といえば、たった1つ、大量に作ることしかありませんでした。素人しかいないということは、逆に言うととても自由なことです。ノンキャリア集団によって作られるものは素人臭いかもしれないけれど、新しい芽が出てくるという大きなメリットを持っています。

 ブロードウエイの舞台もそういう形で作られたものです。ヨーロッパの伝統的なオペラやバレエとはまったく違っています。

 

●舞台装置という仕掛け

 

 摩天楼に多くの人々が惹きつけられたのは、それが、20世紀の機械文明の展示場という形でクローズアップされたからです。そして、その展示場の仕掛けは、舞台装置に大きな影響を受けていました。実は、アメリカの商業デザインや産業デザインは、舞台装置を元に作られていることが非常に多いのです。ビルのデザインも、舞台装置のデザインが使われています。

 ニューヨークで、1930年代に摩天楼が続々と誕生したとき、ほとんどの人が「あれはミュージックホールだ」と言ったそうです。確かに、ニューヨークの街並、特に摩天楼の界隈はミュージックホールの舞台で、後ろの方できらきら光る星やアール・デコのデザインが、そのまま現実世界に侵入してきたような印象を受けます。その最たる例は、クライスラービルでしょう。ビルのデザイン、とくに尖塔部分のきらびやかなデザインは、ほとんどミュージックホールの背景を思わせます。実際、クライスラービルのデザインには、舞台装置作家ヒュー・フェリスも参加していました。

 そういう意味で、摩天楼は新しい都市空間、都市の見せ方のルールを提示したと言っていいでしょう。ニューヨークは、建築の成り立ちからして、演劇空間として構成されていたです。

 

●ライトアップされるビル

 

 1930年に建てられたクライスラービルは、20世紀の都市の未来イメージを変えました。その新しいイメージは、スーパーマンです。「スーパーマン」の映画を見れば分かるように、スーパーマンは都市の上空を飛び回り、暗い夜空に建ち並ぶビルの下側は電飾に飾られ、異様に明るい世界が映し出されています。それは、光を多用して、ライトアップした光の都市のイメージです。

 光の都市にすることによって、建物の上部は天国のイメージに、地面の方は明るいためにいくら摩天楼が沢山建っても普通の生活ができ、地下は楽しい盛り場の世界になるという、今のニューヨークのイメージができあがります。こうして、ニューヨークの摩天楼は、まさに舞台装置に彩られたものになってきます。

 摩天楼は、それ自身も照明されて明るいものになると同時に、それ自身が光を発する装置の役割を果たします。光を放ち、路上をエンタテイメント空間にすることで、ニューヨークは一気に世界都市の地位へと登りつめました。ニューヨーク全体が、非常に大きな舞台装置となることで、都市空間そのものが、舞台と同時に観客を収容する巨大な客席となったのです。

 現在、東京の街にも高層ビルは沢山建っていますが、残念なことに舞台装置というコンセプトはありません。明治時代に建設された東京は、パリやベルリンなどのヨーロッパ都市をお手本にしています。関東大震災と第二次世界大戦で、2度に渡って灰燼と化し、その都度建て直されてきましたが、都市を魅力的に見せるためのコンセプトは無かったのです。

 一方、ニューヨークの街にはコンセプターが何人も登場しました。初期に登場したサリバンやフランク・ロイド・ライトなども、ニューヨークを彩ったコンセプターです。しかし、現在のニューヨークのイメージを一番大きく演出したのは、ヒュー・フェリスでしょう。彼は1920年代に、たくさんの摩天楼のデッサンを描きましたが、専門は舞台装置のデザインでした。ヒュー・フェリスが描いたデッサンは、どれも摩天楼が光に照らされています。彼の演劇的なセンスが、ニューヨークが光の都市であり、演劇的空間になる源になっています。

 しかし東京は、都市の楽しみ方や見え方まで考えてビルを建設していません。ニューヨークの場合は、あんなにごちゃごちゃと入り組んで建っているのに、空を見上げると摩天楼が見え、美しいスカイラインを目にすることができます。東京はせっかく大きな建物を建てても、その建物を見上げて「すごい」「これが俺の街か」と思える場所が無いのです。典型的なのが新宿都庁ビルで、別の街まで行かないと、その全体像を見ることはできません。せっかくの劇的空間が、景観という面で生かされていないのです。

 

●仮設的な都市としての東京

 

 では、東京の都市としての面白さはどこにあるのでしょうか。それは、新宿の高層ビル群などより、渋谷や原宿の界隈のほうが興味深いと思います。渋谷や原宿が、アジアを始め、世界中から注目されているのは、東京の持つ多様な側面の1つです。

 今、東京で盛り場となっている場所は、元が寺院や墓地といった特殊な地域だったという点です。原宿は明治神宮に繋がり、青山も名前の通り神秘的な空間です。江戸時代には青山大地と明治神宮が繋がっていて、赤坂、六本木を含めた地域がすべて寺や墓地でした。これらの場所は、東京では高台に当たるのですが、高台には水が出にくいため、もともと人が暮らす空間ではありませんでした。つまり、非日常的な空間だったのです。

 これは都市のイメージとして一般的に言えることですが、盛り場は、人間の生活空間といったイメージが希薄で、非日常的で、仮設的、神秘的な空間です。現在の青山、原宿、渋谷など、若者たちが集まる都市空間のイメージは、そうしたものとリンクしていると思います。渋谷や原宿には、僕もときどき行きますが、街の眺めが他とはぜんぜん違います。あの仮設性は非常に人を惹きつけるものがあります。その辺りが、東京がニューヨークと決定的に違うところでしょう。

 ニューヨークが20世紀に入って、舞台装置のような、言い換えればブロードウェイのような街作りを目指してから100年変わらずにその姿を保持しているのに対して、東京の街並は非常に短いサイクルで変わっていきます。特に、青山、原宿、渋谷などは、そうした傾向が強く、まるで、一幕ごとに全てが変わってしまうような、期間限定のテント小屋のようです。——それが東京という都市の舞台性なのかもしれません。そんな風に「昨日と今日とは違うんだ」ということを東京が強調しているとしたら、なかなか面白いことかもしれません。そうした仮設性や刹那性は、新しい21世紀の都市の要素を表しているのかもしれません。  

 

●アイデンティティと芸術

 

 この本で紹介されている作品の多くは、ニューヨークの街角に落ちていたものを実際に拾い集めて作られています。いわゆる「ごみ芸術」として見ることもできます。実は、このように不要になったものを寄せ集めて、そこに新たな生命を吹き込む作業は、実は一番神的な行為といえます。

 路上のごみは、一度命を抜かれてしまったものです。それが拾い集められ、他のごみと組み合わせて、結びつけられて展示されることで、再び、見る側の意識に引っかかるようになってきます。

例えば、コニーアイランドの岸辺にカブトガニが落ちていても、そのままでは何でもないことですが、それが拾い上げられ「これはコニーアイランドでのビーチであったカブトガニなんだ」とラベルが付いて出てくると、舞台に上がる存在になってしまう。スポットライトが当てられるのです。

 非常に重要なことですが、アイデンティティとは、常に再合成されたものです。

ニューヨークと自分の接点を見つけようとしたら、ニューヨークに行って、いろいろなものを見て来るというのは、始まりに過ぎません。何かそこから、自分が再合成する何かを持ちこまないといけません。

再合成にはいろいろな方法があると思います。本書で紹介しているように、落ちていたものを拾い集めて再合成することも、「これが俺のニューヨークだ」ということになります。こうして再現することは、アイデンティティの重要なモニュメントになります。

 アーティストというのも同様です。何かをクリエイトするのではなく、常に再合成をしているのだと思います。それは純粋な意味では、子供が遠足で石を拾ってくるのと同じです。が、アーティストが再合成することにより、再現されたものは自分自身の表現となり、相手との繋がりを持ってきます。

 このような、再合成し、スポットライトを当てるという行為は、20世紀のアートの1つのポイントでもあります。19世紀までは、アートでも何でもなかったものが、「アート」という名前を付けることによって、MOMA(ニューヨーク近代美術館)やグッゲンハイムに展示されているような作品が生まれてきました。マルセル・デュシャンの作品は、まさにそれだと思います。ヨーロッパ的な伝統や職能集団のシンジゲートが確立されていないニューヨークに出てきて、独自のレディメイド作品を発表することにより、「生きることがアートだ」ということを身をもって示しました。

それは、ニューヨークという演劇的空間の中でこそ可能になったことなのだと思います。

浅葉克己氏インタビュー

ニューヨークがバイブルだった

●1950・60・70年代のニューヨーク

——最初のニューヨークの印象はどのようなものでしたか。

 浅葉:初めて行ったのは29歳のときでした。最初の印象は、とても騒がしく、街も建物も非常にノイジーで、どうなっているのかなという感じでした。当時の日記には「恐竜が叫んでいるような街」と書いています。その頃の東京は、静かなものでした。ビルも低く、すべてが鳥小屋のように密集していました。僕らはまず、ニューヨークのビルの大きさに圧倒されました。ニューヨークは、立体感あるの街だと思いました。

 

——当時のニューヨークのアートやデザインについては、どう思われましたか。

 浅葉:若い頃は、ニューヨークデザインにかなり影響を受けました。1950・60年代は、ニューヨークの『アートディレクターズ年鑑』がバイブルでした。アメリカが今よりももっと元気で、クリエイティブな時代でした。

1960年代のニューヨークデザインは、今も圧倒的なものを感じます。優秀な写真家、編集者、デザイナがたくさんいて、一番華やかな時代でした。なかでもすごかったのが「DDB」という広告代理店の広告です。広告を作る上での僕らのお手本でした。

 1960年代のデザインとアートもすごかったし、アンディ・ウォホールが活躍したポップアートの全盛の70年代も、活気がありました。亡くなる2年前でしたが、僕は彼をモデルにして広告を作ったことがあります。

 

——浅葉さんご自身は、ニューヨークのどのあたりに影響を受けたのでしょうか?

 浅葉:ニューヨークのポップアートの影響は大きかったですね。それから、演劇やディスコ、マジソンアベニューの広告作りの巧さ。建築家や、インテリア・デザイナたちの力もすごかった。

ニューヨークの雑誌も、本当に、毎日見ていました。日曜日に会社に行って、いいページがあったら切り取ってしまうということもよくやりました。早い者勝ちでしたから、雑誌が来るとすぐに薄くなってしまうんです。

 高校生の頃は、アメリカ文化センターで「アートディレクション」や「ハーパス・バザー」「ヴォーグ」などをよく見ました。今でもニューヨークはわくわくする感じがあります。当時は、ニューヨークという街自体がきらきらと輝いていました。

 

——当時と今のニューヨークのデザインを比べると、変わったと感じますか。

 浅葉:今も面白いのですが、少しさっぱりしすぎという感じがあります。ニューヨークの『ADC年鑑』も熱心に見なくなりました。現在は日本のデザイナの仕事の方が面白いという気がしています。アメリカは、年輩で現役のデザイナやアーティストがたくさんいます。たとえば、僕の大好きなジャスパー・ジョーンズは70歳になりますが、今も現役です。ところがもうすこし下の、僕たちの世代の人たちは、ほとんどドロップアウトしてしまいました。次の世代となるとぐんと若い世代になってしまいます。その中で今を代表する人となると、ピンと来る人がいないのです。

 

●ニューヨークの後ろの正面

——今日本のデザインが面白くなってきた、というのはどうしてなのでしょう?

 浅葉:日本はいろいろな意味でせっぱ詰まったところがありますからね。アメリカは好景気が続いて、少したるんでいるのかもしれません。今度、喝を入れてこようかなと思っています。

もちろん新しい世代で、僕らの目の届かないところで活躍している人がいるかもしれません。それにニューヨークは、一度成功した人がずっと同じことをやり続ける場所でもないのでしょう。若い頃に成功して、別の場所で人生の次のステップを歩み出す人も多いと思います。逆に、日本人の場合は、デザイナなら一生涯デザインをやり続けるでしょう。 

 ニューヨークと日本のデザイナという職業に対する捉え方の違いかもしれません。亀倉雄作さんは最後まで現役でした。田中一光さんももう70歳ですが現役です。そうした先輩たちを見ていると、僕もあと20年は続けられるのかなと思ってしまいます。

 日本のデザイナは一匹狼が多いですね。ニューヨークのように、建築家とデザイナが一緒に組んだり、別の分野の人々とのコラボレーションをなかなかやりません。これは、日本のアートマネジメントがしっかりしていないところに問題があると思います。

 

——日本のデザインの特徴をどのように見られますか。

 浅葉:手作りの感覚がまだ残っているところが面白いのではないでしょうか。デザイナ本人のタッチが残っているところです。日本のデザインの方が触感があると思います。それは目で見る触感という意味においてもです。

何を使おうと、結局面白いものができればいいんですが、手で作ったほうがはるかに面白いものができる、というのが僕の実感です。

 現在のニューヨークのデザインは、コンピュータ化されすぎていて、匂いもしないし、触感もない感じです。

日本のデザインがニューヨークを追いかけていた時代から離れて、別の世界を展開し始めたということかもしれません。今、やっと日本独自のデザインができてきたところなのだと。そいういう意味では、僕自身も、アメリカよりも、中国文化に親近感を覚えます。「後ろの正面だあれ」という言葉がありますが、アメリカを向いていた日本の「後ろの正面」というのは、中国のことではないでしょうか。

 

——浅葉さんが展開されている文字の世界も、そういった流れの中にあるのですね。

 浅葉:タイポグラフィーはヨーロッパやアメリカから来たものです。日本の場合は漢字がベースになりますから、やはり中国文化の影響はまぬがれません。昔は、僕も漢字やひらがなを使うのが嫌でした。ニューヨークのデザインは綺麗だったでしょう。「NewYork」という言葉も、「N.Y.」というロゴタイプも、何となくかっこよく見えました。今は、漢字の方がかっこいいですね。僕らのアイデンティティもその辺にあるのではないでしょうか。

【TETSU インタビュー】

本書の冒頭にも紹介されているアーティスト・ROCKY曰く、「アメリカで育ち、日本人の肉体を持つ」注目すべきカメラマンとは、彼、TETSUのことだ。 つい最近も、サザビーで彼の作品が高額でせり落とされたという。 当たり前のことかもしれないが、彼は日本語を喋らない。しかし、目の当たりにする見かけとのギャップがあまりにも著しく、「日本人の肉体を持つアメリカ人」ということが気になってくる。そんな不思議な印象から、このインタビューは始まった。

●ぼくのアイデンティティはとても複雑なことなんだ  

 アメリカ系日本人。今は両方を手に入れていることに満足している  

——まず始めに、アイデンティティーについて伺います。アイデンティティーをどのように理解されていますか? また、アイデンティティーについて何か理想や先入観などがありますか?

 TETSU(以下T):自分自身について? それとも私の仕事について? ——両方についてです。 T:うーん、これはすごく複雑なことなんだよなあ。

——とても興味がある点なので、ぜひお聞かせください。

 T:アメリカ人とひとくちに言っても、例えば日系アメリカ人、アフリカ系、プエルトリコ系……いろいろじゃないですか。私は自分のことを“アメリカ系日本人”だと捉えているんだ。アメリカで生まれて、アメリカの教育を受けたけれど、家族は日本人だから。両方を手に入れていることに満足しているんだ。それぞれに有利なところがあるでしょ。日本人であり、アメリカ人であることは、私にとってとてもよいことなんだ。

——あなたはいつ頃から、両方への帰属性を持っていることの有利さを実感されたのですか?

 T:子供の頃は、有利じゃなかった。1940年に生まれたんだけど、1941年に第二次世界大戦が始まったからね。当時日本人であることは、むしろ不利なことだったんだ。私たちの家族は3年間、コロラドにある強制収容所で過ごしたんだよ。強制収容所は砂漠にあって、フェンスに囲まれ、兵隊に監視されていて、自由は全くなかった。いってみれば、私たちは捕虜だったんだ。そのころは、アメリカ人にとって日本人は敵だったからね。でも現在は、日本の経済が伸びて、アメリカとの関係も良くなり、日本とアメリカは友だち、同盟国だよね。だから今は有利になったんだ。日本の文化はとても洗練された素晴らしい文化だと認められているし、日本の人々は賢くて、勤勉だからね。つまり状況によって有利であったりそうでなかったりするってわけだ。

——第二次世界大戦の状況下では、強制収容所に行かなければならなかったり、多くの日系アメリカ人は苦労したと思います。そのときのあなたにアイデンティティーの衝突はなかったですか?

 T:私がティーンエージャーだった50年代のアメリカで、日本人であることは大変なことだったんだ。日本との問題がたくさん残っていたからね。多くのアメリカ人がまだ怒りと憤慨を感じていた。多くの人々の息子たちが戦死していたからね。でも、第二次世界大戦中、日系アメリカ人の兵士は、ヨーロッパでとても勇敢にアメリカのために戦った。そのことは日系アメリカ人がアメリカ人に受け入れられやすくなるのにとても役立ったんだ。

——日系人の兵がアメリカへの忠義を示していたことは有名ですよね。彼らは、自分たちはアメリカ人だということを証明するために、勇気を持って一生懸命戦ったときいています。

 T:そう。たとえ彼らの両親や兄弟姉妹が投獄されていてもね。皮肉だけど。

——自らのアイデンティティーを、戦場で証明しなければならないなんて、とても辛かったでしょうね……。

 T:私が証明しなければならなかったのは、私がアメリカで育ったということだった。大きくなる頃には戦争は終わっていたけど、家族が日本人だったからこそ、私はもっと成功しなければと努力したんだと思うな。

——その努力はあなたのアイデンティティのためでもありますよね? 祖先のルーツをたどって……。

 T:それは最近のことだよ。私が初めて日本に行ったのは50歳の時。10年前だからね。それまでインドや南アメリカなど世界中を旅行したけれど、日本には行ったことがなかったんだ。

——それは何か理由があったんですか?

 T:そうだなあ、たぶん子供の頃の経験と自分自身の個人的な歴史からくるごちゃ混ぜの感情のせいじゃないかなあ。それで日本へ行くことに躊躇したんだと思う。最近死んだ姉は一度も日本へ行かなかったよ。

●初めて日本に行った時、とても興奮していました。  親戚は父に似ていて、しぐさまで同じようなんだ。  彼らと一緒にいるととても興奮して、写真を撮りたくなった。  

——ご両親から日本語を習いましたか?

 T:父親と母親は、家ではいつも日本語で話していたよ。彼らはカリフォルニアで生まれたんだけど、日本で育ち、日本で教育を受けたんだ。そして大人になってからアメリカに帰ってきたので、彼らの文化はほとんど日本的だった。だから私は三世だけど、二世に近いんだよ。初めて日本に行ったとき、私はとても興奮していた。父親はもう死んでいたけど、彼の弟や妹は日本で生きていたんだ。彼らと会うのはとても楽しかった。彼らは父親に似ていて、しぐさまで同じようなんだ。彼らの方もまた、私を見て「父親に似ているねぇ」と何度も言うんだよ。私に父親の面影を見出すことで私と同じ経験をしたんだと思う。とても素晴らしかった。私はあまり日本語を話せないけど、彼らと一緒にいることでとても興奮して、作品としての写真を撮りたくなったんだ。それまでは、私の写真のテーマはニューヨークやヨーロッパ、アメリカ人である私の妻、だったんだけどね。

——今年また日本に行かれるとききましたが?

 T:そう、1ヶ月くらいだけどね。また山口に行きたいし、奈良や京都や、もちろん東京にも。日本をもっともっと見たいんだ。

——日本で個展をやる計画は?

 T:たぶんいつかはね。東京都美術館が私の作品を買ったので、可能性はあるよ。年をとったらやるかもしれないなあ(笑)。

——楽しみですね。あなたはずいぶんお若く見えますね。

 T:私が知ってる芸術家のほとんどは若いままだよ。私だってまだ30代の気分さ。もちろん体は確実に変化している。例えば背中が痛んだとき、治るのに時間がかかるし。でも心は変わってないな。仕事に向かうときは興奮するし、今でも始めた頃と同じくらい写真を愛しているんだ。

——いつ写真を始めたんですか?

 T:25歳の時。ほとんど独学だった。

——どうして写真家になろうとしたんですか?

 T:友だちの影響が大きかった。私はシカゴで育ったんだ。戦争が終わって強制収容所から解放されたとき、私たちはどこへでも好きなところへ行くことができた。そこで、父親はシカゴへ行くことにしたんだよ。私のシカゴの友人の一人が写真家だったんだけど、彼がやっていること、とりわけ写真の現像がとても気に入ったんだ。それは美しいものに思えたんだ。そこで私は自分で写真を撮りはじめ、自分の暗室を持ったんだよ。35年前のことさ。今でも、変わらず写真を愛してるし、同じくらい楽しんでるよ。

 今だに暗室に行くのが好きなんだ。最近じゃデジタルにはまっている写真家もいるけど、デジタルとアナログは全く違った分野さ。私はアナログ写真が大好きなんだ。暗室に入ると魔法にかかったみたいになる。まるで住み慣れた自分の家で、瞑想しているみたいな気持ちで過ごせるんだよ。

——カラー写真も撮られるのですか?

 T:ときどき撮るけど、ほとんどはモノクロームだね。その方が好きなんだ。

●父親が死んだとき、日本人の老人を撮ろうと思った。  老人の、しわが深く刻まれた顔は素晴らしい。それをポップに撮りたいんだ

——ところで、家系図をお持ちだときいたのですが?

 T:叔父のキヨシが家族の精神としての家系図にとても興味を持っていてね、彼と彼の娘でたくさん調査をしたんだよ。彼らは記録や写真をまとめて、私にお手製の本をくれたんだ。

——そうした家系図というのは、一つのアイデンティティーの証明、記録でもあると思うんですが。

 T:そうだね。

——私たち日本人は、アイデンティティーというものをあまり深く考えてこなかったように思うのです。特に日本の中だけにいると、単一民族社会だし、みんなだいたい同じ価値観、同じ考えでいると思ってしまいがちで、気づいたり、考えざるをえなかったりする場面になかなか直面しません。

 T:要は社会通念、人種、そして言語なんじゃないかな。アメリカ人から見ると、日本人はみんな似て見える、なんてことはあるかもしれないね。 ——でも、あなたのような実例を示したり、今日のあなたとのお話を伝えれば、アイデンティティーについて考える引き金になるのではないかと思うんですよ。 自分が実際誰であるか、とか、これは思い過ごしかもしれませんが、アメリカに比べると人々は似ていますし。ですからこのプロジェクトを通じて私たちは、日本人に知ってもらおうとしています。もちろん日本の中だけにいると自分が誰であるのかということを考え始めるのは困難です。しかし、と思います。

 T:そうなるのだったら嬉しいね。私も自分のアイデンティティーの一部を日本で見つけることができた。そしてまだまだ考え続けなければならないと思っているんだよ

——これからも日本人の撮影を続けるのですか?

 T:うん。父親が死んだとき、私は日本人の老人を撮るのに興味が湧いたんだ。老人の、しわが深く刻まれた顔は素晴らしい。私は、その顔をアップで撮りたかったんだ。

——あなたはボクシングの写真も撮ってらっしゃいますよね?

 T:そう。ボクシングはもっと彫刻的なのだね。 ——あなた自身はボクシングをされるんですか?

 T:ええ。

——なぜボクシングに興味を持ち始めたのですか?

 T:ボクシングのスキルが好きなのさ。体の使い方が好きで、とても美しくて興奮する。

——有名なボクサーも撮りますか?

 T:いいえ。今はブロンクスの若者、例えばプエルトリコ人や黒人で上手くなるために一生懸命がんばっている人の方に興味がある。あまり成功していない人だね。彼らがチャンピオンになっていく過程がおもしろいのです。成功してしまった人にはあまり興味が湧かないんだ。それから、ジムにいる人の顔も好きなんだ。年をとっていたり、貧乏だったり。高価なヘルスクラブにいる人の顔は個性がない。ジムにいる人たちは、私にとって興味をそそられる素晴らしい被写体なんだ。

【TOM Interview】 

TOMは、DOYLE  PARTNERSという中規模な会社の幹部だ。大きなクライアントをいくつも持ち、ニューヨークでよく見かける書店のCIや、ブックデザインなどを手がけている。デザインの仕事の縁で、インタビューを行い、ここに掲載する予定だった。 しかしその縁で彼の家に招待され、彼の家族への考え方には深い感銘を受け、企画は大幅に変更することになったのだ。その感銘のわけとは、ご覧のように、彼の家庭は、他民族ファミリーだったことである。 

●ジョンのこと、サムのこと。

——私たちが感動し、興味があるのは、あなたが養子をとっていることです。しかも子供たち自身の本来の母国やアイデンティティーを教えようとしていますよね。あなたがこのようなことをしている理由、何故大切だと思うのかをあなたの言葉で説明してもらえますか?

 Tom:いいですよ。私たちは、養子をとる過程ではどんな家族になるのか知りませんでした。ジョンを得て、2人のアメリカ人と1人の日本人の家族になりました。将来的には他にも子供を育てるつもりだったので、ジョンがしっかり自分を持つことが大切だと思ったのです。ジョンが育っていく過程で「自分は白人なのかアジア人なのか、アメリカ人なのか日本人なのか」ということで混乱しないようにです。  

 私の家族はドイツ系で、祖父と祖母はドイツ語を話していましたが、私はそれを自分の人生に組み入れることができませんでした。リンはノルウェーとアイルランドの習慣で育ちました。そこで私たちは、自分たちは日本人ではないけれども、家族が日本人であるのだから日本の習慣もすこし取り入れてみようと考えました。もしジョンの心に日本人であることを入れておかなければ、彼はずっと成長することができないからです。あらゆる点で、彼は今までも、これからもずっと日本人であることに気付くのです。ですからリンは大変でした。まったく違う文化ですから。私たちは日本の伝統に慣れるために特別努力しました。本をたくさん読んだり、日本語で少し遊んだり、日本のことが自然に感じられる環境にしたのです。お金もかかりましたが。今、サムにも同じ事をしています。

——韓国人ですよね?

 Tom:そうです。

——彼女も韓国人の学校に通わせるのですか?

 Tom:適切な年になったら、と思っています。

——日本の宗教まで取り入れているのが面白いですね。

 Tom:私たちはただ、混ざっている感じの家にしたいのです。アメリカ的でもなく、日本的でもなく、ただ家族としてそのままでいたいのです。これを少し、あれを少し、これも少し……というように。

——あなたは日本語を勉強しているのですか?

 Tom:いいえ。時間がありません。

——日本には何度も行ったことがあるのですか?

 Tom:いいえ。私たちの夢は、いつか1ヶ月くらい予定のない旅行をすることです。日本や、おそらく韓国も。ただ観光地に行くだけでなく、友人たちにも会って、時間を過ごすのです。

——日本の人がこのように開放的になるのは難しいので、私たちから見るととてもすてきなことです。あなたたちがしていることは、多くの人々の励みになると思います。

 Tom:アメリカの文化風土だって、すべてが素晴らしいものじゃありません。すべてがニューヨークやサンフランシスコと同じように多様さを受け入れているわけではないのです。

●僕は日本人? アメリカ人?

 Tom:確かに日本はとても単一的な社会です。私はオハイオ州のデイトンで育ちました。リンはコネチカット州のコニスチカで育ち、どちらもとても単一的な社会です、少なくとも2、30年前はそうでした。今は少し変わってきているかもしれないのですが、私が育ったところは、みんな白人で、みんな同じでした。

 初めて日本人の友人に会ったのは大学に入ってからだったと思います。それまでは町にあった中華レストラン以外ではアジアの人に会ったこともなかったと思います。黒人もあまりおらず、少なくとも私に近所では黒人と白人は町の別々の地域に住んでいました。このようなことが本当のアメリカなので、私たちはここに引っ越してきてから今みたいな混合した家族になりました。

 私たちはただ、子供たちが私たちのようなことを経験し、自分が異常だと感じないように特別な努力をしたいのです。子供たちがいやな家族、いやな社会だと感じないようにです。特に子供たちには、養子であるという問題がもう少し先に待っていますから。それだけで十分大変でしょう。ティーンエージャーくらいになると……。

 Linn:金曜日にジョンを学校に送っている時に……ジョン、あの時話したこと覚えてる? ジョンがアメリカ人か日本人かという話。

 ユウタ:僕、もう知ってるよ。

 Linn:そうね。でも彼は私に「僕はアメリカ人なの、日本人なの?」と聞いていたのです。

 ユウタ:僕は日本人とアメリカ人だよ。

 Linn:そうよ。彼は両方なのです。そして彼はどうして両方になれるのかを理解しようとしていました。このことは子供、大人も、様々なレベルで向かわなければならないトピックだと思います。年々違うことを耳にするだろうけれど。

 Tom:リンの家族と、私の家族も今はコネチカットに住んでいるのですが、そこに行くとある意味とても人目を気にします。私たちはとても珍しい家族だからです。しかしニューヨークは大きな都市なので、あまり珍しくありません。私たちは別荘を持っているのですが、そこに行くとまだ少し感じます。別荘はニュージャージー州にあるのですが、そこはまだ少し孤立していて、そこでは私たちはとても異常な家族で、湖に行くと私たちは、親がドイツ人なのに「あの家族、アジア人の子供が二人いるよ」と陰で言われています。   

 リンと私もたくさん学びました。ジョンとサムを私たちの人生に迎え入れることによって、いろいろなことを考えるようになりました。例えば子供たちが成長するにつれて、私たちもいっしょに新しい文化のことを学んだり、新しい言語を学ぼうとしたり……。ですから、私たちにとっても良かったです。個人として、人間愛を広げるのに。

 Linn:私たちは結婚してもう20年近く経ちますが、子供たちを迎え入れてから、主人が立場を維持するのは容易ではありませんでした。以前は何かをやりながら他のこともできましたが、今はいっしょに行動することが多くなっているからです。これは困難ですが、楽しいことでもあります。  養子をもらうことはとても簡単でした。子供が欲しかったし、家族が欲しかったので、養子をもらうことが当たり前だと思えました。率直にいうと、養子を引き取る時、生みの親たちが私たちを選んだので受けるしかありませんでした。とても簡単でした。オープン・アドプションでした。

——あなたはアイデンティティーについてどう思いますか? またどのように理解していますか? アイデンティティーという言葉はあなたにとってどのような意味を持ちますか? 難しい質問だとは分かっていますが。

 Tom:リンがさっき「オープン・アドプション」という言葉を使いましたが、この考えは知っていますか? 昔は、育てられない赤ちゃんがいる女性は孤児院へ行って赤ちゃんを置いていき、孤児院が育て親を探していました。最近ではオープン・アドプションで、生みと育ての両方の家族が会うのです。恥はまったくありません。ジョンの時はそうでした。話の最後があなたの質問の答えになるのでお話します。  ジョンの母親は若い日本人でアメリカに留学しており、妊娠していました。彼女は日本に帰ることになっていたのですが、子供を連れて帰ることはできませんでした。彼に十分な教育ができないし、みんなが彼のことを知るし、などの理由からです。彼女は、自分はいられないけど、ジョンはアメリカにいて欲しかったようです。そこで彼女は養子のエージェンシーに行きました。私たちは一度養子をもらうことを申し込んでいたので、良い組み合わせでした。そこで私たちは会って、ジョンはまだ生まれたばかりで病院にいましたが、小さな部屋に生みの母親と父親と一緒に座り、とても気まずくて堅苦しい会話をしました。彼女たちは自分たちの子供を、私たちの息子として育てるために引き渡そうとしているのですから。その後、私たちがジョンのために望むことを話したのですが、そのうちの一つが自信についてです。  私は、アイデンティティーとはこのことだと思います。自分が誰であるかを理解することです。私たちはそれで満足です。自分が誰で何であるか、どこから来たか、などその他どんなことにもかかわらず、「私は大丈夫だ」、私は目標を達成できる、恥ずかしい思いはしない、他人がどう思っているかは気にしなくてもいい、私にはユーモアがある──最近ではとても大切なのです──という感覚があれば……。そして前に進むのです。それが目的でした。

——自尊心。

 Tom:自尊心、自信、同じことです。勇気と、社会が作る自分ではなくて自分がなりたいものになれる、という自由。私は、これは大問題だと思います。容易ではありません。

——容易ではありません、特に日本では。

 Tom:そうかもしれませんね。

●子供たちがなりたいものになれる社会へ

——人生の本質についてもう少し話をさせてください。次の質問は、あなたの人生についてです。家族を除いて、あなたの人生で最も大切なことは何ですか? 大事な価値観みたいなものは?

 Tom:リンと私はつい最近、この町に公立学校を設立し終わって、今でも関わっています。過去4、5年間取り組んでいました。これは、家族と仕事以外のちょっとした追加です。この2つ以上のものはありません。私たち2人にとって、地域と教育への献身が、本当に価値あるものだと強く感じています。

 特に、上流や中流階級の人は子供を私立学校に通わせ、下層階級の人たちは公立学校に通わせているこの町のようなところでは、教育は子供たちに機会を与えるからです。公立学校はあまり良くない可能性があります。それは機会という意味においてですが。社会の暗黙のきまりによって、私立学校に通うお金がない子供たちは公立学校に通うことになり、与えられるべき機会が一生与えられないかもしれません。  

 ですからリンと私はこの数年間、子供たちがなりたいものになれるように機会を与えるために、この学校を援助することに献身しました。ですから家族、仕事、価値、地域への献身、それから教育が大切なことです。リンの母親は教育者で、リンも先生で、私の母親も先生で、祖母も先生で……。気付かないうちに教育が、自分が誰であるかの大切な一部だということを知っているのです。

 Linn:学校で起こっているのはただ経済的な分離ではなく、人種的な分離でもあるのです。中流や上流階級の人々は白人である傾向があるからです。ですから学校では人種と経済で分離されています。私たちが設立を援助した学校は、誰でも通えるように公立学校なので、生徒はもっと混ざっています。人種的、経済的ともにです。私たちが住んでいる地域はとても多様な地域ですから。それにもかかわらず、子供を学校に通わせる時期になると、ジョンは幼稚園で唯一白人ではない子供なのです。それで良いはずがありません。

 Tom:サムも同じようなことです。今、彼女はまだ3歳なので、午前中に私立の幼稚園に通っています。そこではサムは唯一のアジア人なのです。 Linn:ハーバートもいるわ。 

 Tom:ハーバートは中国人です。白人ばかりで、アジア人が2人。黒人はいません。これが典型的な私立学校なのです。白人ばかり。

ユウタ:僕は白くないよ。ピンクだ。