使い古した絵筆

 Still working on project

SHIBAYAMA
WORKS

NFT

ブラシとOile Paintについて

2015年に写真やイラストとは違う、新しい表現を探してムシーニでキャンバスに描こうと思った。何故油絵の具をドイツのシュミンケ ムッシーニの油絵具にしたかと言うと、世界インドから帰国しデザインの仕事と同時に1990年に古典技法を習っていた。しかしデザインの仕事が多くなった。しかし2015年に再び忘れていた白テンペラの魅力に再会したからです。でもその後とその間は家の再工事とデザインに忙しかった。

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Produced in 2015

30年以上前頃にAPPLEのMacintoshⅡを初めて購入した。13inchのモニターの中でボリュームのPICTを上げ下げすると、それに合わせて実際の音も大きくなたっり小さくなったりした。電源を切るときもモニターの中でマウスで終了を選べば、本当に電源が切れる。本当に画期的だった。心臓が踊るようだった。でもJOBSがやめさせられ、居なかったときに購入した事は随分経ってから知った。それまで銀座のパソコンショプでSORDの安いセットのカセットレコーダに簡単な数式を記憶させて実行させていた。

(上の絵について) スティーブの問題は、アップル・コンピュータ社設立前からのビジネス・マンとしては致命的な滅多にシャワーを浴びない事でした。これは、彼が果物中心の完全菜食主義であれば、体内から粘液など汚物が放出されず体臭がなくなると信じて居た為ですが、確かに、菜食によって体臭や糞便の匂いが肉食をしている人達に比べて少ないのは確かな気がするが、体以外の環境によって生じる体臭を消し去るとは考え難いですから。しかし、とにかく、彼は、自分の直感に従った行動を取る頑固者だった為、それを信じ続け、なかなか、この考えを改める事が出来ず、周囲に変人扱いされる原因となって居た様です。

 

「御前は、いい加減、シャワーを浴びろ!御前は、見苦しい。」

―スティーブの衛生上の問題を解決する為、雇われた太り過ぎで健康に問題があった新社長 後にスティーブされる(解雇)

 

「御前も見苦しい、シャワー浴びてやるから、いい加減、御前も果食主義の本を読んでダイエットしろ!」

―22 歳のスティーブ・ジョブズ

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基底材はシナベニアのパネルにボローニア石膏。

絵の具はムッシーニとウインザーアンドニュートンです。乾きを早めるためにムッシーニのアクセルレータを溶剤の中で5%使用。

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Produced in 2016
 

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裏切りに怒る男、制作中。

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R大学を途中でやめてしまったJはAというゲーム会社に就職した。その時面接したのがアル アルコンもしくはアランアルコーン。その時のアルコンの顔は多分こんな感じ。従業員ナンバーは3番だった。ちなみにその時Jは従業員ナンバー40だった。

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Jは若い頃ビルケンシュトックサンダルをよく履いていた。免疫食事療法にはまっていて果物ばっかり食べていてそうしていれば体内の浄化されて体臭がしないと考えていた。いつも素足でAに行くし着替えてこないので臭いとAから文句をつけられていた。

Produced in 2015

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7歳のスティーブ・ジョブズは泣きながら家に飛び込んだ。「君の本当の両親は君を望んでなかったの?」。養子縁組されたというジョブズの話に近所の女の子が投げたこの一言のせいだった。しかし養父母はジョブズを抱きしめ確信を持って話した。「違う。私たちが君を特別に選択したんだ」。捨てられたりあるいは特別に選択されたり。アップル創業者スティーブ・ジョブズの人生は一生にわたりこの2つを行き来した。

「母さん行かないで。父さん戻ってきて」。青年ジョブズはジョン・レノンの歌「マザー」をたびたび歌った。友人らには「両親を知らない苦痛だ」と打ち明けた。極端な菜食主義になったのもこれを克服しようとする苦闘だったと周囲の人々は話した。菜食主義は後日摂食障害につながり彼の健康を大きく害することになる。彼は自分を捨てた両親を「精子と卵子の銀行にすぎない」と冷静に話し、養父母を「1000%私の両親」として一生尊敬した。運命は意地悪にも繰り返された。ガールフレンドのクリスアン・ブレナンがジョブズの子どもを妊娠した時2人は23歳だった。両親がジョブズを持った歳だ。ジョブズは堕胎を勧め「養子に出すことだけは絶対するな」とも話した。ジョブズは晩年になりこれを後悔した。

デザインにもとても厳しかった。がん治療を受け医療用マスクを使わなければならない時も「デザインが気に入らない」として他のデザインのマスクを5個ほど持ってくれば直接選ぶと言い張った。だが、この執着がアップルを特別にさせた。「適当な製品は最悪」という信条だった。入院しても「iPhone3GS」「GS」の文字デザインをめぐり病室でティム・クックと1時間にわたり議論するほどだった。

Produced in 2017

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Produced in 2015

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Produced in 2015

Produced in 2015

TOPを伝える美術

企業の情熱をアートすることで力に変換し、まち・ひと・しごとにファンを生み出す。 情熱は生活と企業活動の源。社画はテレワークの待ち受け画面、オフィースの入り口に。そしてリビングルームにお勧めいたします。 例えば下の写真のように使います。

ジョブズの一生は矛盾的だ。禅仏教信奉者ながらも巨大企業を運営したし、反物質主義ヒッピーでありながら友人らの考案物を商業的に活用した。技術と芸術を行き来した彼は伝記でこのように話した。「人文学と科学技術が会う交差点には魔法が存在する」。捨てられた生から始まったが世の中を魅了させた男、彼の人生がまさに魔法だった。

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Produced in 2015

 「捨てる」と「選択」の両極端の間でジョブズは「特別さ」に執着した。アップル創始期に社員に番号を割り振ったが、共同創業者のスティーブ・ウォズニアックは1番、ジョブズは2番だった。するとジョブズは「私が1番だ」と言い張った。

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Produced in 2015

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Produced in 2016

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Produced in 2015

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コンピュータと全く関係のないアップルと言う社名は、リンゴ農園で過ごした体験、元気が良く、楽しそうで、怖い感じがしないと言う事と彼の果食主義に由来していたそうです。また彼の食事に対する情熱は、製品への情熱に匹敵するモノだった様です。アップルとピクサーの両方を経営して行くに当たり、肉体的・精神的負担が想像以上に大きかったモノの菜食を原動力としていたそうです。デートにはベジタリアン・レストランで過ごし、ウェディング・ケーキには卵も乳製品も使わないモノで、後に医者から強要され、若干の魚や卵を摂る羽目になったモノの深刻に衰弱した時でさ、それを拒み、自然療法を追求、断食しようとさえしましたが周囲に反対されました。しかし、食欲も気力もなくなって居た時、もはや固形食を食べられる状態でもなく、果物のスムージーなどを望み、最後まで貫き通したそうです。

 

1995年8月 ワイアード

WIRED寄稿” インドの、きっと、天使たち。

1989年にインドに瞑想を目指した。

 旅は続いていた。インド・ボンベイの街に辿り着いてからは、あの威嚇するような大きな目玉とコールマン髭の油断ならぬ詐欺師たちに頭を悩ませていた。それでも高僧が棲むと いわれる寺院を尋ねる気持ちは変わらなかった。3、4時間ぐらい列車に揺られていただろ うか、辺りは薄鼠色の岩山の景色に変わっていた。とても遠くに迷いこんでしまった気がし はじめていた。やがてボンベイ駅で出逢ったインド人が教えてくれたバスに乗り換えるため に下車する停車場に着いた。そこには頼りないホームだけがあった。屋根もない、入り口もない駅で風だけが吹き、辺りには建物らしいものはほとんどなく、牛がうずくまっていた。何かこの旅自体が間違いなの かもしれないという不安が僕を襲った。もう夕暮れは近い。

 しかし目的のバス停は一体どこ にあるのだろう。そんな時、空を見上げようとした僕の視界に突然入ってきたのは、高さ2 メートルくらいの土壁に腰をかけ笛を吹いている少年だった。僕の顔を見て首を振り「あっ ちだよ」と合図を送っているようだった。僕は声にならない声で「ありがとう」と言ったつ もりで少年が標した向こう側に歩いていった。大きな石が置いてあった。そこで待っている と、どこからか涌きたち集まって来た人たちが僕を囲んでいた。 

 そんな僕たちが磁石になっ たかのように、バスは早速やって来て全員を乗せて発車した。それでもバスに乗ったことが 正しいのか全然分からず運に身を任せたまま、バスは小さな村々を通り過ぎていった。見た こともない大きな楕円形の太陽と地平線とが接する辺りのゆらぎから、かろうじて照らす赤 い色で道と岩山と柴が子供の頃をフラッシュバックさせた。いつしか僕は寝てしまったようだった。隣りのインド人が脇腹を恐い顔をしてつっついて降りろと合図をして起こされた。 夕闇の中、僕の後ろでバスは去っていった。 

 目の前に現われたのは間口2メートルぐらいの 鉄門。ここは寺なのだろうか?グリーンの軍服を着てライフルを持った兵士が二人、両脇に 向かい合って立っていた。「ガネシュプリ、アシュラム?」とやっとの思いで僕が聞くと、 護衛兵は無言で頭を突き出し、中に入れと言っている。硬直した僕の身体は迷っているとい うより、何か別の合図を待っていたのかもしれない。次の瞬間、誰かが背中を押した。その 門をくぐり、後ろを振り返ると、二人の兵士はお互いを見つめ合ったままライフルを直立さ せ、そのまま永遠に立ち続けているかのようだった。

 思い直し?前方に進み左に曲がると、 植え込みが両側にある小さな道があった。その一点透視のパースの正面には、ちょうど拝観 料を取るような小屋があった。僕が息をのむように近づくと、その小さな窓から顔を出した のは、シワ一つない赤いシルクの衣に身を包んだ西洋人のお坊さんだった。まるであらかじ め僕がここに今、到達するのを知っていたかのように水が入ったコップを差し出した。この さびれた、生き物の営みもままならないインドの山の中と近代的匂いがする西洋人のヒンズ ーのお坊さんという異質な組み合わせにとまどいながらも、奥へと案内されるまま進んだ。 敷地は扇状に広くなって、やがて手入れの行き届いた色とりどりの花壇や芝生の公園や、た っぷりと水を湛えたプールや本屋が次々と僕の視界に入ってきた。その時初めて、やっと目 的の寺院に辿り着けたことを僕は理解したのだった。目に見えない力でここまで導かれたの だった。途中で出会った少年たちは天使なのかもしれなかった。

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